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Samuel Ullman Museum Virtual Tour

サミュエル・ウルマン博物館 ヴァーチャル・ツアー

これが、サミュエル・ウルマン氏が死ぬまでの

20年間を過ごしたアラバマ州バーミングハム市にある家です。「ウルマンおじいさんは、この家で一番年上の孫娘及び彼女の一家と共に暮らし、二階のベッド・ルームにて亡くなりました。散文詩『青春』が執筆されたのは、この家のダイニング・ルームにて、ウルマンおじいさんが78歳頃のことでした」。家に近づくにつれて、まず目に付くのは職人芸的な家のつくりで、それは、正面玄関の上に備え付けられた鉛によって縁取りされた窓や、素朴ながら味わい深いポーチにそって作られた柱によってよく表されています。

いったん博物館の中に入ると、訪れる人は、さらに細部にまで気を配った家作りを目の当たりにします。それは、松の木の中心部だけを用いた造られたフローリングや、壁やドアを縁取る木製の装飾輪郭部(モールディング)、そしてハート型にかたどった暖炉上の窓などに顕著に現れています。また、建築時そのままに残されるダイニング・ルームと一階のフロント・ベッド・ルームに施された電燈は、この家が建てられた

1907年に初めてバーミングハム市民に供給されるようになった電気の便利さを先取りするために備え付けられたもので、これらの電燈には最先端の技術に不備が起こり停電になった場合に備えて、油とそれを燃やす芯を入れるための入れ皿が備え付けられています。

博物館入り口の廊下には、この博物館の修復に際し経済的支援をした人々及び企業の名が記された額、木炭によって描かれたウルマン氏の肖像画、そして各国語に訳されたウルマン氏の散文詩「青春」の額が飾られています。翻訳された「青春」のほとんどは、日本の「若葉会(

Youth Association of Japan)」によって提供されたものであり、この「若葉会」は、「青春」の詩に感銘を受けた日本のビジネスマンたち及びその企業が、世界の一人でも多くの人に「青春」の詩の良さを理解してもらおうと結成されたものであります。

入り口廊下からすぐ左手に、かつてウルマン家の人々が居間として利用していた部屋があります。この部屋には数々の家族記念写真が飾られており、中には、ウルマン氏と彼が愛してやまなかった彼の妻であるエマさんとの結婚式の日に撮られた写真や、

6人の子供たちの記念写真、そして孫たちに囲まれて幸せそうに微笑むウルマン氏の写真などが飾られています。また、ウルマン氏がたどった道をなぞる世界地図も飾られており、幼少時代にドイツからフランスへ、その後11歳のときにポート・ギブソンとミシシッピー州ナンチェスへ、そして、44歳のときに最終的にここバーミングハムに落ち着くまでの行程が記されています。

訪れる人が、ダイニング・ルームとして使われていた部屋へと移動すると、そこには、アメリカ国内におけるウルマン氏の歴史を示す記念品が、年代ごとに飾られています。まず目に付くのは、お父さんがポート・ギブソンで経営していたスーパーを手伝う青年ウルマン氏の姿で、次に、南北戦争で南部連邦軍に参戦したウルマン氏の姿です。ウルマン氏は南北戦争で傷を受けるものの、無事ポート・ギブソンに帰還し、その後、ポート・ギブソンより大きな町であるナンチェスに引っ越し、ここで結婚し家族を設け、ビジネスマン、そして地域社会に貢献する福祉者としてのウルマン氏に生まれ変わります。ウルマン氏は、ここナンチェスで、ニューオーリンズからミシシッピー川を伝って伝染病が広まった折に、多くの人々が、伝染病が広まり危険となったナンチェスを見捨てて、他の町へと避難する中ナンチェスにとどまり、病気の人々を看病し、そういった人々にスーパーで売られるものを提供し続け、さらには、礼拝が出来るようにシナゴーグを整え、社会の福祉リーダーとしての働きを提供し、尊敬されるようになります。ウルマン氏は、このために市議会議員として選出され、教育委員会の委員に任命されるようになります。そして、当時では大変珍しいことですが、白人だけではなく、黒人からも公正で、公平なる市議会議員として尊敬されるようになるのです。

1884

年、家族の経済的状況を改善するために、ウルマン氏は家族を連れてアラバマ州のバーミングハム市へと引っ越します。この南部の中では比較的新しい街として知られるバーミングハムにおいて、彼は金物屋を始め、そして小さな改革的教派に入会し、すぐに街の教育委員長としての任命を受けます。彼は、教育委員長として、当時米国南部全体でも二、三しか存在しなかった黒人のための高等学校を、初めてここバーミングハムに設立します。ウルマン氏の地域社会に貢献する社会福祉者としての情熱は、ここバーミングハムでもすぐに認められるようになり、彼は、ここでも市議会議員として選出されることになり、同時に、エマニュ・エル(ユダヤ教)寺院のリーダーとして長い間この寺院に使えることになるのです。また、この寺院の困難な時期には、正式に按手礼を受けていない者としては大変異例である、寺院の司祭としての役割も担うことになります。そして、州内の経済的そして政治的な多くの機関においても、彼は、大きな貢献をなしえることになるのです。

博物館内のベッド・ルームに踏み入ると、

1867年に自分の妻への結婚祝いとして特別に注文したベッドが、まず目に入ります。以前にウルマン氏の奴隷であったC.リー氏の手によって彫刻が施されたローズウッドのベッドは、四つの同じく彼の手による大きな木製のねじによって組み立てられており、当時の奴隷による素晴らしい職人芸の伝統を今に残す貴重な遺産でもあります。このベッド・ルームに飾られている記念品は、ウルマン氏が詩の執筆に専念した晩年のものばかりですが、同時に、この部屋の中には彼の人生と詩を日本及び日本人に結びつけた多

くのものが展示されています。彼の散文詩「青春」は、大戦後の多くの日本人の心に感銘を与えたものであり、同時に、アメリカ人の精神を奮い立たせ、その文化に深く浸透したものでもあります。

サミュエル・ウルマンの人生と彼の残した功績は、この博物館に展示されている遺品及び彼の実際に使用していた物を目の当たりにすることによって、よりいっそう鮮明に浮き彫りになってきます。

(このセクションの文章は、

UABの元歴史科助教授であるマーガレット・アームブレスター女史の"Youth": The Life, The Legacy (University of Alabama Press, 1993) より抜粋したものです)